少女歌劇レヴュースタァライトにおける自己啓発的でないメッセージ性
少女歌劇レヴュースタァライトにおける物語・演出・構造の話は散々他の人間にされているので私が書くまでもないのだが、ただこのアニメは自己啓発的でないな、と思ったのでそれを記録しておこうと思う。
アイドルもののアニメと言えば(レヴュースタァライトはアイドルものではないけどメディアミックスだし構造的には同じでしょう)遡れば沢山あるが、ここではアイマス・アイカツ・ラブライブあたりを想定している。
これらの作品は我々に対してプロデューサーだったり、ファンだったり、それこそ「うんうんそれもまたアイカツだね」とアイドルになることを半ば強制されるが、つまりそういった頑張るアイドルの姿を見て自分も頑張ろうと、そうさせてしまう。
だが、レヴュースタァライトにおけるメッセージは次のようなものであった。
列車は必ず次の駅へ
では舞台は?
あなたたちは?
勿論ここで言われる「あなたたち」とは主要キャラクターのことだが、これは観客という我々「あなたたち」とのダブルミーニングなのではないのか?
アニメは必ず次クールへ
では声優は?
オタクたちは?
ここでレヴュースタァライトの自己啓発的でないのは我々観客に選択権を委ねたことである。99期生達は次の舞台へ進んでいく。観客は人生という舞台に上がることも、またこのまま舞台を見続けることも許されている。
なぜならば舞台は舞台少女だけでなく観客もまた存在しないと成立しないということを、レヴュースタァライトは教えてくれたからだ。
舞台少女はオタク達を舞台(生産者側)に手招きしながらも、しかし観客(消費者側)のままにさせることも望んでいる。
そして今、その選択権を観客達は握っている。
オタクは現実に帰れ
シンエヴァを結局まだ見ていない。だからあれが卒業式だとかそういう風に言われていることを、ああそういうものなんか、としか受け止めることができない。
本当に卒業式なのか?という疑いはあるがそういうのは映画をちゃんと見なきゃ分からないし、そもそも今更見に行くことが億劫になってしまった。しかも時代的な当事者性も別にないので。
という訳でこの文章は「オタクは現実に帰れ」的解釈の批判をしようと思う。
今まで私はこの構造をオタク的理想郷(今では日常系)/現実と二元論的に捉えていたが、そもそもこの構造自体が誤っているのではないかという話である。
それは最近読んだエンドレスエイトの驚愕にこんな一文があったからである。
「エンドレスエイト」が唐突に繰り出したループを体感することは、本来、オタクというモラトリアム志向体質の人種にとっては居心地の良いことであるはずだった。いつまでも同じ風景、微妙に趣向を変えた不変の艦橋がだらだらと漂っていられるのだから。しかし多くのオタクは、「早くストーリーを進めてくれ!」と絶叫した。これは考えてみれば予想外の実験結果だ。モラトリアムなオタク的生き方の自己否定にも見えるからである。
つまるところオタク空間というのは、実生活のストーリー的・建設的・前進的・リア充的モデルへのアンチテーゼ的代替として誇らかに張り巡らされたものではなく、しょせんは実用的建設的な生活理念を虚構の中に日々なぞる場に他ならなかったらしい。オタク生活は根底においては、リア充生活に代わるものではなく、リア充人生の希薄化コピーにすぎなかったらしいのだ。(p.55 l2)
これは確かにその通りである。我々はオタク的理想郷を神性化しすぎてしまっている、現実を神性視するように。
私が言いたいのは「現実に帰れ」というのはそもそも最初から現実に存在しているオタクに言っても意味ない、ということである。(昔のオタクがどれくらい精神世界に耽溺していたかは知らないけどやっぱり神性視しすぎている気がする…だってそれならテレビ版でも満足しそうだし)
このエンドレスエイトのような現実から脱出するにはキョンもこう言うはずです。
「俺はまだ東方オリキャラを作ってねぇ!」
9/1からはまた新たなエンドレスエイトが始まるだけでしょうが。
終劇(エヴァよりまちカドまぞくの方が面白いです)
女児アニメの神話とプリチャン
序
キラッCHUだッCHU!
メルパンだパン!
ラビリィラビ!
メルパン、女児アニメの神話って知ってるパン?
何のことだッCHU?
このパンパカパーン!女児アニメといったら「女児の教育になるような現実生活に根差した友情や努力といった内容も含まれた面白いストーリー」という神話パン!
それは神話じゃなくて本当ラビ。「アイカツを見れば幸せになれる」って言ってた女性声優の画像もあるラビ。セーラームーンやプリキュア等、人々の夢を守る存在を通しての道徳的教育や、アイカツやプリティーシリーズが夢に向かって努力する大切さをストーリーに組み込んでいるのは明らかラビ。
実はメルパン、気が付いてしまったパン…プリチャンはそういったストーリーがないパン!これはきらら系、つまり日常系アニメパン!
どういうことだッCHU~!?
プリティーシリーズの物語消費
プリティーシリーズにおいてはそれぞれの作品ごとに物語がある、という当たり前にすらみたない共通認識がまずある。そこでここではまず一旦それぞれの作品ごとのあらすじを振り返りその認識を知らない人のために共有する。
オーロラドリームは春音あいらと伝説のプリズムジャンプ、オーロラライジングをめぐりながらプリズムスターを目指す物語。
ディアマイフューチャーはPrizmmy☆とPURETTY、プリズムショー界の未来を救う物語。
レインボーライブはプリズムワールドと現実の不調和を修復する物語。
プリパラは神アイドルを目指していく中でプリパラにもたらされる諸問題を「みーんな友達、みーんなアイドル」というテーゼのもとに解決していく物語。
アイドルタイムプリパラはシステムによってもたらされたされたバグの修復という物語。
そしてプリチャンはトッププリチャンアイドルを目指しながら諸問題を解決する物語。
このように見るとプリチャンが特別に物語を消失しているようには見えない。だがプリチャンの特徴はそこである。つまり、女児アニメであり物語があるように見せかけながら実際はデータベース的消費であり日常系アニメの一種である事実を隠蔽しているということである。
プリティーシリーズの前期/後期
では一体プリチャンとそれ以前の作品の違いは何か。ここではまず最初にプリティーシリーズを前期と後期に分断し、その物語の軸となっているものを明らかにする。その軸を中心に物語がプリチャンにおいて消失している点を明らかにしていく。
その前期/後期の分断点とはもちろんレインボーライブ以前とプリチャン以後である。こう聞かれて物語の分断点として何を思い浮かべるだろうか。現実/ファンタジーということか、シリアス/ギャグということか。
現実/ファンタジーといった指摘はどうだろう。確かにプリパラは掃除機が生きているしファンタジーの世界であるが、そもそもがプリズムジャンプ自体がファンタジーであったりするためこれは当てはまらないはずである。
シリアス/ギャグではどうか。これもプリパラのストーリーは2期を顕著にシリアスである。春音あいらがぎゃふんと転ぶのは言わずもがなギャグでしかない。キンプリは存在がギャグである。
このよくある想定は間違っている。では正しい分断点とは何か、それは「賃金労働の有無」である。
前期/後期の違い
賃金労働の有無、つまり給料を得ているかどうかという問題は非常に大きい。オーロラドリーム・ディアマイフューチャーでは阿世知社長という経営者がいるようにプリズムショーはビジネスでありプリズムストーンやディアクラウンの販売促進である。またレインボーライブは彩瀬なるが店長になりプリズムストーンショップの経営を行っているといえ、さらにある理由でギターを購入したい涼野いとはバイト代が貰えるかどうか聞いていた。このことからレインボーライブに至ってはキャラクターが給料を得ていることすら示唆されいる。
ではプリパラ以降はどうか。真中らぁら達は非日常を求めてプリパラへと足を運んでいる。そこには名声を求めるキャラクターも存在するが、あくまでも楽しいからという理由がある。プリチャンもこれを受け継ぎ~やってみたの延長線上にライブが存在する。ここには金銭的な目的というものは存在しない。ただ、神アイドルになりたい、運営するチャンネルでやってみたいからライブをする、というそれだけである。
プリパラ/プリチャンの違い
前述のように分断できるとしてプリパラ/プリチャンでは何が異なるのか。それは超越的なシステムの有無に他ならない。
プリパラには「システムですから」というセリフに代表されるように、構造がシステムによって全て決定されている。神アイドルになるためにも最終的には神の審判が設けられていて神の御心に沿わないのであれば神アイドルになることはできない。それは超越的なシステム、つまり前近代の神が存在しているシステムである。
プリチャンはそれとは異なる「神は死んだ」の世界であり、大きな物語が終焉した世界である。いつでもどこでも世界と繋がれる、すなわちグローバリズムの発展した世界で少女たちの~やってみたがインターネットのようなものに配信される。そこではアイドルはある一つの選択肢にすぎず、絶対的なものではない。我々は現実においてもユーチューバーの親近感(これは虚構であるが)を楽しむ。いいねは数量可能な現実的なものとなり、プリパラのいいねとは異なっている。プリチャン内で行われる大会もある一定のコミュニティに限られた話であり、絶対的なものではない。VtuberがTwitterにおいてトレンド入りするような感覚を我々はプリチャンというものを見ながら錯覚させられている。
プリチャンランドという虚構
このような錯覚はプリチャン3期になってより強調される。プリチャンランドの出現である。これはもちろんディズニーランドのパロディであり、プリチャンマスコットはミッキーマウスといったマスコットのパロディであり、イルミナージュコーデはエレクトリカルパレードのパロディでもある。
シュミラークル、すなわちこのようなプリチャンは存在しないはずであるが摸倣され存在することになる。プリチャンアイドル以外の配信者といった存在は捨象され、それが現実として定義し直される。それは非日常であったプリパラとは異なり現実の延長線上に描き出された非日常である。プリパラにおいては建築物がにょきにょきと生えてくるシーンがあるが、プリチャンにおいては工事という極めて現実的方法で建築がなされている。
ジュリィというシステムによって動くプリパラ、カガヤキ・コーポレーションの高度な資本主義的システムによるプリチャン。資本の力でしか非日常を生産できないプリチャンはポストモダン的に作られていることがわかる。
結
プリチャンが隠蔽していること。それはつまり我々はプリチャン内に配信されているチャンネルでなく彼女たちがプリチャンに配信するまでの過程、つまり日常をもっぱら消費しているということだ。プリパラ以前においてはトップアイドルまでの過程を我々は見ていた。しかしプリチャンにおいてはそれを発信する場所はプリチャン内であり、いわば我々はメタ的に彼女たちの日常を消費する。トッププリチャンアイドルになるといった物語を楽しめるのはプリチャン世界に存在する人間だけであり、我々視聴者は介在できずむしろその撮影の裏側を消費している。
これはいわゆるきらら系と言われる系譜に属す。物語はなく、ただ少女の日常が繰り返されていく。そこには青春があったとしても女児に向けた道徳や努力といった命題はない。ただ、少女が生きているそういった事実しか存在しえない。
ここに女児アニメの神話は崩壊した。教育的内容を含んだ重厚なストーリーという神話をプリチャンには適用することができない。それがいいか悪いかは置いておいてプリチャンは女児アニメにおいて日常系をやってのけた作品として定義されるべきだろう。ある意味マイキャラというデータベース的消費を女児にさせるゲームでありながら物語消費を今までさせていたのは誤りであり、むしろ日常系になることは約束された帰結だったのだろうか。
しねパン!!!!
8
お久しぶりです。のののです。
ハイデガー読んでません(絶望)。理解できるわけがなかった。みなさんはきちんとレベルを見極めてから読んでください。きっと無駄になります。まぁ読書体験なんて読了後100%内容覚えてる人間なんてほぼいないのですが。
そんなハイデガーが読めなかった自分ですが、一応私文という肩書きで生きてます。大丈夫なのか。
ということで心配になった私はセンター現代文を久しぶりに解いてみるか、と思い立ちプリチャン前から印刷機をガーガー言わせて問題を印刷してました。
ただ今日のプリチャンはルルナが出るので気になってしょうがない。ミュークルドリーミーまで見てから解こうということにして、インターネットサーフィン。
プリチャンはマスコットに対するご主人様への忠誠が石ノ森章太郎のセクサドールを想起しますが、オタクの玩具になるマスコットほどカワイイものはないと思います。メルパンもそう思うでしょう?
そんなことはどうでもいいんです。センター現代文です。2019年の。翻訳についての評論と花の小説。セオリー通り40分で。うー、鉛筆久しぶりに握った。
結果は…
評論26小説42合計68
…
キラッCHUもう私文名乗るの恥ずかしいッCHU。
存在と時間その1ラビ
というわけでハイデガーの存在と時間を読んでいく。ちくま学芸文庫版ラビ。
私はハイデガーについての知識はナチスに関わっていたこと・現象学から発展させたことしか知らない。大丈夫なのかこれで。
さてまず第一章。しょっぱなから難しい。ので読まない。
そして第二章。最初にまとめが書かれている。ので分からんかった私はここで理解したつもりになった。
「存在」とは何か、という問題を解くにはそれを問う存在、つまりそれができる人間を現存在とまず一旦規定することが必要らしい。そしてまずはこの現存在とは何かということを明らかにしていく、と言ってると思う。
で、その後にタイトル回収のごとく時間が出てくるのだが、何を言ってるかは理解できないので理解しない。ただ、古代ギリシャ的(つまり時間の中で物は存在するということ)な通俗的時間解釈には反対する~ということは分かる。で、カントはそこで頑張ってたけどスコラ哲学(何それ)の時間的解釈があったからうまくいかなかたっよねーと言ってると勝手に読む。
で、じゃあどういう対処するかといえば現象学らしい。その後は現象学最高!って感じの文章なので飛ばすべし。理解できないので。
現象という言葉の意味を言ってますが、だいあぱんにキスしてる人への嫌悪という意味での現象が一つと、プリチャンオタク現象とかそういう意味での現象って説明がしたいだけだって勝手に読んだ。合ってはないと思う。
これで序論の100頁です。何が理解できたラビ?知らないラビ。
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ラブドールの漫画、そして社会的責任のnote、そしてこのnoteへの嫌悪と、まぁなんというかゴッチャゴチャである。
まず性的指向と性的嗜好という言葉を私は嫌いなのだが、これは通俗では前者は先天的、校舎は後天的ということになっているが、そもそもそういう言葉ができる前は全ては異常性癖であっただろうに(カトリック的に)。
つまり本来「性」というのは労働から逸脱する行為として考えられてきた。酒もまた然り。つまり犯罪的なのだが。
しかし資本主義はそういうことをある程度許容してきた、というかカトリックも結婚を神に誓うみたいにさ。あくまで一番は神で次に婚約者です、みたいな。結婚した人間の性交でさえ罪だったわけで。
とまぁ、性的指向と性的嗜好の違いなんてのはきっと「資本主義から逸脱するか/しないか」という方が本質的だろうと思う。資本主義には賛成です、このことはラブドール肯定派/否定派も認めざるを得ないでしょ?…おそらく。
だからまず性的なことはいつでも労働からの逸脱であったし、社会への加害性を持っている、が、子どもを作るということは労働力の再生産なので許しましょう、ってことになってるだけという前提が抜け落ちているからややこしい。
おそらく、労働のサイクルをスムーズにするための性処理の道具としてラブドールが認められるという未来は望めるけど 、その時にはもう最高の新自由主義社会だと思います。だから、そういう感じの最悪な世界になってて欲しいのですが。