少女歌劇レヴュースタァライトにおける自己啓発的でないメッセージ性

少女歌劇レヴュースタァライトにおける物語・演出・構造の話は散々他の人間にされているので私が書くまでもないのだが、ただこのアニメは自己啓発的でないな、と思ったのでそれを記録しておこうと思う。

アイドルもののアニメと言えば(レヴュースタァライトはアイドルものではないけどメディアミックスだし構造的には同じでしょう)遡れば沢山あるが、ここではアイマスアイカツラブライブあたりを想定している。
これらの作品は我々に対してプロデューサーだったり、ファンだったり、それこそ「うんうんそれもまたアイカツだね」とアイドルになることを半ば強制されるが、つまりそういった頑張るアイドルの姿を見て自分も頑張ろうと、そうさせてしまう。

だが、レヴュースタァライトにおけるメッセージは次のようなものであった。

列車は必ず次の駅へ
では舞台は?
あなたたちは?

勿論ここで言われる「あなたたち」とは主要キャラクターのことだが、これは観客という我々「あなたたち」とのダブルミーニングなのではないのか?


アニメは必ず次クールへ
では声優は?
オタクたちは?


ここでレヴュースタァライト自己啓発的でないのは我々観客に選択権を委ねたことである。99期生達は次の舞台へ進んでいく。観客は人生という舞台に上がることも、またこのまま舞台を見続けることも許されている。
なぜならば舞台は舞台少女だけでなく観客もまた存在しないと成立しないということを、レヴュースタァライトは教えてくれたからだ。

舞台少女はオタク達を舞台(生産者側)に手招きしながらも、しかし観客(消費者側)のままにさせることも望んでいる。

そして今、その選択権を観客達は握っている。