オタクは現実に帰れ

シンエヴァを結局まだ見ていない。だからあれが卒業式だとかそういう風に言われていることを、ああそういうものなんか、としか受け止めることができない。
本当に卒業式なのか?という疑いはあるがそういうのは映画をちゃんと見なきゃ分からないし、そもそも今更見に行くことが億劫になってしまった。しかも時代的な当事者性も別にないので。

という訳でこの文章は「オタクは現実に帰れ」的解釈の批判をしようと思う。

今まで私はこの構造をオタク的理想郷(今では日常系)/現実と二元論的に捉えていたが、そもそもこの構造自体が誤っているのではないかという話である。
それは最近読んだエンドレスエイトの驚愕にこんな一文があったからである。


エンドレスエイト」が唐突に繰り出したループを体感することは、本来、オタクというモラトリアム志向体質の人種にとっては居心地の良いことであるはずだった。いつまでも同じ風景、微妙に趣向を変えた不変の艦橋がだらだらと漂っていられるのだから。しかし多くのオタクは、「早くストーリーを進めてくれ!」と絶叫した。これは考えてみれば予想外の実験結果だ。モラトリアムなオタク的生き方の自己否定にも見えるからである。
つまるところオタク空間というのは、実生活のストーリー的・建設的・前進的・リア充的モデルへのアンチテーゼ的代替として誇らかに張り巡らされたものではなく、しょせんは実用的建設的な生活理念を虚構の中に日々なぞる場に他ならなかったらしい。オタク生活は根底においては、リア充生活に代わるものではなく、リア充人生の希薄化コピーにすぎなかったらしいのだ。(p.55 l2)


これは確かにその通りである。我々はオタク的理想郷を神性化しすぎてしまっている、現実を神性視するように。

私が言いたいのは「現実に帰れ」というのはそもそも最初から現実に存在しているオタクに言っても意味ない、ということである。(昔のオタクがどれくらい精神世界に耽溺していたかは知らないけどやっぱり神性視しすぎている気がする…だってそれならテレビ版でも満足しそうだし)

このエンドレスエイトのような現実から脱出するにはキョンもこう言うはずです。

「俺はまだ東方オリキャラを作ってねぇ!」

9/1からはまた新たなエンドレスエイトが始まるだけでしょうが。



終劇(エヴァよりまちカドまぞくの方が面白いです)