女児アニメの神話とプリチャン

 

キラッCHUだッCHU!

メルパンだパン! 

ラビリィラビ!

メルパン、女児アニメの神話って知ってるパン?

何のことだッCHU?

このパンパカパーン!女児アニメといったら「女児の教育になるような現実生活に根差した友情や努力といった内容も含まれた面白いストーリー」という神話パン!

それは神話じゃなくて本当ラビ。「アイカツを見れば幸せになれる」って言ってた女性声優の画像もあるラビ。セーラームーンプリキュア等、人々の夢を守る存在を通しての道徳的教育や、アイカツやプリティーシリーズが夢に向かって努力する大切さをストーリーに組み込んでいるのは明らかラビ。

実はメルパン、気が付いてしまったパン…プリチャンはそういったストーリーがないパン!これはきらら系、つまり日常系アニメパン!

どういうことだッCHU~!?

 

 

プリティーシリーズの物語消費

 

 プリティーシリーズにおいてはそれぞれの作品ごとに物語がある、という当たり前にすらみたない共通認識がまずある。そこでここではまず一旦それぞれの作品ごとのあらすじを振り返りその認識を知らない人のために共有する。

 

 オーロラドリームは春音あいらと伝説のプリズムジャンプ、オーロラライジングをめぐりながらプリズムスターを目指す物語。

 ディアマイフューチャーはPrizmmy☆とPURETTYプリズムショー界の未来を救う物語。

 レインボーライブはプリズムワールドと現実の不調和を修復する物語。

 プリパラは神アイドルを目指していく中でプリパラにもたらされる諸問題を「みーんな友達、みーんなアイドル」というテーゼのもとに解決していく物語。

 アイドルタイムプリパラはシステムによってもたらされたされたバグの修復という物語。

 そしてプリチャンはトッププリチャンアイドルを目指しながら諸問題を解決する物語。

 

 このように見るとプリチャンが特別に物語を消失しているようには見えない。だがプリチャンの特徴はそこである。つまり、女児アニメであり物語があるように見せかけながら実際はデータベース的消費であり日常系アニメの一種である事実を隠蔽しているということである。

 

プリティーシリーズの前期/後期

 

 では一体プリチャンとそれ以前の作品の違いは何か。ここではまず最初にプリティーシリーズを前期と後期に分断し、その物語の軸となっているものを明らかにする。その軸を中心に物語がプリチャンにおいて消失している点を明らかにしていく。

 

 その前期/後期の分断点とはもちろんレインボーライブ以前とプリチャン以後である。こう聞かれて物語の分断点として何を思い浮かべるだろうか。現実/ファンタジーということか、シリアス/ギャグということか。

 

 現実/ファンタジーといった指摘はどうだろう。確かにプリパラは掃除機が生きているしファンタジーの世界であるが、そもそもがプリズムジャンプ自体がファンタジーであったりするためこれは当てはまらないはずである。

 

 シリアス/ギャグではどうか。これもプリパラのストーリーは2期を顕著にシリアスである。春音あいらがぎゃふんと転ぶのは言わずもがなギャグでしかない。キンプリは存在がギャグである。

 

 このよくある想定は間違っている。では正しい分断点とは何か、それは「賃金労働の有無」である。

 

前期/後期の違い

 

 賃金労働の有無、つまり給料を得ているかどうかという問題は非常に大きい。オーロラドリーム・ディアマイフューチャーでは阿世知社長という経営者がいるようにプリズムショーはビジネスでありプリズムストーンやディアクラウンの販売促進である。またレインボーライブは彩瀬なるが店長になりプリズムストーンショップの経営を行っているといえ、さらにある理由でギターを購入したい涼野いとはバイト代が貰えるかどうか聞いていた。このことからレインボーライブに至ってはキャラクターが給料を得ていることすら示唆されいる。

 

 ではプリパラ以降はどうか。真中らぁら達は非日常を求めてプリパラへと足を運んでいる。そこには名声を求めるキャラクターも存在するが、あくまでも楽しいからという理由がある。プリチャンもこれを受け継ぎ~やってみたの延長線上にライブが存在する。ここには金銭的な目的というものは存在しない。ただ、神アイドルになりたい、運営するチャンネルでやってみたいからライブをする、というそれだけである。

 

プリパラ/プリチャンの違い

 

 前述のように分断できるとしてプリパラ/プリチャンでは何が異なるのか。それは超越的なシステムの有無に他ならない。

 

 プリパラには「システムですから」というセリフに代表されるように、構造がシステムによって全て決定されている。神アイドルになるためにも最終的には神の審判が設けられていて神の御心に沿わないのであれば神アイドルになることはできない。それは超越的なシステム、つまり前近代の神が存在しているシステムである。

 

 プリチャンはそれとは異なる「神は死んだ」の世界であり、大きな物語が終焉した世界である。いつでもどこでも世界と繋がれる、すなわちグローバリズムの発展した世界で少女たちの~やってみたがインターネットのようなものに配信される。そこではアイドルはある一つの選択肢にすぎず、絶対的なものではない。我々は現実においてもユーチューバーの親近感(これは虚構であるが)を楽しむ。いいねは数量可能な現実的なものとなり、プリパラのいいねとは異なっている。プリチャン内で行われる大会もある一定のコミュニティに限られた話であり、絶対的なものではない。VtuberTwitterにおいてトレンド入りするような感覚を我々はプリチャンというものを見ながら錯覚させられている。

 

プリチャンランドという虚構

 

 このような錯覚はプリチャン3期になってより強調される。プリチャンランドの出現である。これはもちろんディズニーランドのパロディであり、プリチャンマスコットはミッキーマウスといったマスコットのパロディであり、イルミナージュコーデはエレクトリカルパレードのパロディでもある。

 

 シュミラークル、すなわちこのようなプリチャンは存在しないはずであるが摸倣され存在することになる。プリチャンアイドル以外の配信者といった存在は捨象され、それが現実として定義し直される。それは非日常であったプリパラとは異なり現実の延長線上に描き出された非日常である。プリパラにおいては建築物がにょきにょきと生えてくるシーンがあるが、プリチャンにおいては工事という極めて現実的方法で建築がなされている。

 

 ジュリィというシステムによって動くプリパラ、カガヤキ・コーポレーションの高度な資本主義的システムによるプリチャン。資本の力でしか非日常を生産できないプリチャンはポストモダン的に作られていることがわかる。

 

 

 プリチャンが隠蔽していること。それはつまり我々はプリチャン内に配信されているチャンネルでなく彼女たちがプリチャンに配信するまでの過程、つまり日常をもっぱら消費しているということだ。プリパラ以前においてはトップアイドルまでの過程を我々は見ていた。しかしプリチャンにおいてはそれを発信する場所はプリチャン内であり、いわば我々はメタ的に彼女たちの日常を消費する。トッププリチャンアイドルになるといった物語を楽しめるのはプリチャン世界に存在する人間だけであり、我々視聴者は介在できずむしろその撮影の裏側を消費している。

 

 これはいわゆるきらら系と言われる系譜に属す。物語はなく、ただ少女の日常が繰り返されていく。そこには青春があったとしても女児に向けた道徳や努力といった命題はない。ただ、少女が生きているそういった事実しか存在しえない。

 

 ここに女児アニメの神話は崩壊した。教育的内容を含んだ重厚なストーリーという神話をプリチャンには適用することができない。それがいいか悪いかは置いておいてプリチャンは女児アニメにおいて日常系をやってのけた作品として定義されるべきだろう。ある意味マイキャラというデータベース的消費を女児にさせるゲームでありながら物語消費を今までさせていたのは誤りであり、むしろ日常系になることは約束された帰結だったのだろうか。

 

 しねパン!!!!